「それ、いくらしたの?」
妻に聞かれて、
「4万くらい。」
と答えた。
買ったばかりのスニーカーだった。
「靴に4万?」
「毎日履くんだから、別にいいだろ。」
そう答えながら、少し嬉しかった。
欲しかったモデルだった。
履き心地もいい。
鏡に映る足元を見るたび、やっぱり買ってよかったと思う。
その日の夜。
洗濯物を畳んでいた妻が、私のインナーを一枚つまみ上げた。
「これ、もう捨てたら?」
首元が少し伸びていた。
「まだ着られるよ。」
「でも、結構くたびれてるよ。」
「中に着るんだから、誰にも見えないだろ。」
妻が笑った。
「4万円の靴を履いて、その下はそれなんだ。」
ちょっと腹が立った。
靴と肌着を一緒にするなよ。
そう思った。
「見えないんだから何でもいい」と思っていた
数日後。
仕事関係の集まりがあった。
少しきれいな格好をしていこうと思い、気に入っている薄手のシャツを出した。
もちろん、例の4万円のスニーカーも履いた。
玄関の鏡で全身を見る。
悪くない。
むしろ今日は、結構いい。
そう思って出かけた。
会場に着いてしばらくすると、少し暑くなってきた。
上着を脱ぐ。
そのまま何人かと話していると、
向かいにいた男性が言った。
「その靴、いいですね。」
すぐに気づいた。
嬉しくなって、
「わかります?」
なんて答えた。
ブランドの話。
履き心地の話。
どこで買ったのか。
散々しゃべった。
そのあとトイレへ行った。
手を洗いながら、何気なく鏡を見る。
そこで急に、さっきの妻の言葉を思い出した。
「4万円の靴を履いて、その下はそれなんだ。」
シャツの胸元に、くっきりとラインが出ていた。
少し汗をかいたせいか、生地も張りついている。
朝は上着を着ていたから気づかなかった。
靴は完璧だった。
時計も気に入っている。
シャツだって、それなりのものだ。
なのに、
一番安く済ませていたものの影響が、しっかり外まで出ていた。
なんとも言えない気分になった。
誰かに笑われたわけではない。
指摘されたわけでもない。
それでも、
「俺、何やってるんだろう。」
と思った。
お金をかける場所を、少し間違えていた
帰宅すると、妻がテレビを見ていた。
「なあ。」
「何?」
「この前言ってたインナー、もう捨てていいわ。」
妻がこちらを見る。
「急にどうしたの?」
今日のことを話すのは、なんとなく悔しい。
「別に。」
そう言って冷蔵庫を開けた。
後ろから、
「何かあったな。」
と笑われた。
その晩、引き出しを開けてみた。
似たようなインナーが何枚も入っている。
セールで買ったもの。
とりあえず買ったもの。
いつ買ったのか覚えていないもの。
考えてみれば、シャツを買うときは散々悩む。
試着して、鏡を見て、生地を触る。
靴ならもっと悩む。
ところがインナーだけは、
「見えないからこれでいい。」
だった。
でも、その日初めて気づいた。
見えないものが、必ずしも外見に影響しないわけではない。
それどころか、
見えないところが整っていないせいで、気に入っている服まで残念に見えることがある。
それなら話が違う。
高級なものが欲しいわけではない。
ブランド名が欲しいわけでもない。
胸元を気にせずシャツを着られる。
汗をかいても慌てない。
上着を脱ぐときに一瞬ためらわない。
そのためなら、お金を払う意味はある。
ようやくそう思えた。
誰にも見せないものほど、自分には効いてくる
翌週。
何枚か新しいインナーを揃えた。
胸元が目立ちにくいものも選んだ。
最初に着た朝、特別な感動はなかった。
鏡を見て、
「こんなものか。」
と思ったくらいだ。
そのまま会社へ行った。
昼を食べた。
午後は外へ出た。
夕方、同僚とコーヒーを飲んだ。
そして家に帰って着替えたとき、ふと気づいた。
今日、一度も胸元を見なかった。
シャツも引っ張らなかった。
鏡で確認もしなかった。
朝着てから、存在そのものを忘れていた。
その瞬間、
「ああ、これか。」
と思った。
いい靴を履けば、足元を見るたび嬉しくなる。
いい時計なら、時間を見るたび少し気分が上がる。
でも、見えないものの価値は少し違う。
意識しなくて済むことに、お金を払う。
そんな買い物もある。
誰にも、
「いいインナーですね。」
とは言われない。
言われたら、それはそれで困る。
でも、それでいい。
お気に入りのシャツを、そのまま着られる。
白いTシャツを避けなくていい。
上着を脱ぐときも、何も考えない。
そういう小さな自由を買っていると思えばいい。
数日後。
また新しいスニーカーをネットで見ていたら、妻が後ろから覗き込んできた。
「また買うの?」
「見るだけ。」
「今度はいくら?」
「……見るだけだって。」
妻が笑う。
私も笑った。
4万円の靴が無駄だったとは思わない。
今でも気に入っている。
ただ、以前とは少しだけ買い物の基準が変わった。
人から見えるものには、お金を使いやすい。
でも、
自分しか知らないところに何を選ぶか。
そちらの方に、その人の暮らし方は案外出るのかもしれない。