「また出てるよ。」
妻に言われて、自分の胸元を見た。
休日によく着ているグレーのTシャツ。
確かに、乳首の形がわかる。
「別にいいだろ。乳首くらい。」
笑って答えた。
妻は、
「本人がいいならいいけど。」
と、それ以上何も言わなかった。
昔からそうだった。
男の乳首なんて誰にでもある。
隠すようなものでもない。
そんなところまで気にしていたら、窮屈で仕方がない。
だから妻に言われても、本気で気にしたことはなかった。
ところがある日。
その「乳首くらい」が、急に笑えなくなる出来事があった。
自分は平気でも、相手も平気とは限らなかった
会社に新しい女性社員が入ってきた。
20代半ば。
私とは親子ほど歳が離れている。
仕事を教えることになり、午後から二人で資料を確認していた。
その日は暑く、ジャケットを脱いでいた。
薄手のポロシャツ一枚。
向かい合って話していると、彼女の視線が一瞬だけ下がった。
すぐに目が戻る。
最初は何とも思わなかった。
ところが少しして、また同じことがあった。
目が合う。
下を向く。
そして、ほんの少し視線の置き場に困ったような表情をする。
そこで初めて、自分の胸元を見た。
はっきり出ていた。
急に落ち着かなくなった。
資料を持ち上げて、胸の前に置いた。
さっきまで何とも思っていなかったのに、一度意識すると妙に居心地が悪い。
彼女は何も言わない。
もちろん、嫌な顔をしたわけでもない。
だから、本当にそこを見ていたのかはわからない。
それでも私は、その瞬間に妻の言葉を思い出していた。
「また出てるよ。」
今までなら、
「だから何?」
で終わっていた。
でも、目の前にいる若い女性に、
「乳首くらい気にするなよ。」
とは、とても思えなかった。
自分が平気かどうかだけで考えていたことに、そのとき初めて気づいた。
帰りの電車でも、なんとなく胸元が落ち着かない。
窓に映る自分を見る。
朝と同じ服なのに、まるで違って見えた。
少し恥ずかしかった。
それ以上に、
相手に余計な気遣いをさせていたとしたら、それは嫌だな。
そう思った。
隠したいわけじゃない。ただ、そこに意識を向けさせたくない
家に帰って、その話を妻にした。
「今日さ。」
「うん。」
「会社で、ちょっと気になった。」
妻はすぐに察したらしい。
「乳首?」
「なんでわかるんだよ。」
笑われた。
「何年言ってると思ってるの。」
少し悔しかった。
「でも俺、別に恥ずかしいとは思ってなかったんだよ。」
「それは知ってる。」
妻はそう言ってから、
「自分が平気なのと、見る人が困らないのは別じゃない?」
と言った。
返す言葉がなかった。
確かにそうだ。
こちらは慣れている。
自分の体なのだから当然だ。
でも、相手にとっては違う。
どこを見ればいいのか一瞬迷わせる。
気づいても、指摘するわけにはいかない。
見ないようにするのも、かえって不自然になる。
そんな小さな気まずさを、知らないうちにつくっていたのかもしれない。
そこで、ようやく考え方が変わった。
乳首を「恥ずかしいもの」として隠したいわけではない。
体形をごまかしたいわけでもない。
会話をしている相手に、余計なものを意識させたくない。
それだけだった。
そう考えると、急に話が単純になった。
「気にする男」になったのではなく、選び方を一つ変えただけ
翌週、インナーを買い替えた。
今までは値段とサイズくらいしか見ていなかった。
どうせシャツの下に着るもの。
それくらいの感覚だった。
今回は少し違った。
上の服に響きにくいか。
胸元が目立ちにくくなるか。
汗をかいても不快になりにくいか。
首からのぞかないか。
自分が必要としていることを考えて選んだ。
数日後。
また、あの女性社員と仕事をする機会があった。
同じように向かい合って資料を確認する。
説明する。
質問される。
答える。
それだけだった。
途中でふと気づいた。
今日は、自分の胸元を一度も確認していない。
資料で隠すこともなかった。
彼女の視線がどこにあるかなんて、考えもしなかった。
仕事が終わって席に戻る途中、
なんだ、こんなものか。
と思った。
何か大きく変わったわけではない。
誰かから、
「今日の方がいいですね。」
と言われたわけでもない。
むしろ、何も起きなかった。
それが一番ラクだった。
以前の私は、
「乳首くらい。」
と言っていた。
今でも、乳首そのものを恥ずかしいとは思っていない。
ただ、
気にしなくていいことと、配慮しなくていいことは、同じではなかった。
50代になって、そんなことに気づいた。
妻に言うと、
「やっと?」
と笑われた。
「うるさい。」
そう返しながら、今度は私も笑った。
自分を神経質にするために、インナーを替えたわけではない。
むしろ逆だった。
服のことを考えずに人と話すため。
相手にも、自分にも、余計な気まずさをつくらないため。
変えたのは、たった一枚。
でも、それ以来、
「乳首くらい。」
と言って笑うことはなくなった。
**隠したいからではない。
そこに、誰の意識も止まらなくていいと思うようになったからだ。**