「ねえ、今度の土曜日、二人で出かけない?」
夕食のあと、妻に声をかけた。
「何か買いたいものでもあるの?」
「いや、別に。たまには二人で飯でも食おうかと思って。」
妻は少し驚いた顔をした。
「珍しいね。どうしたの?」
「別に、何でもないよ。」
本当は、何でもなくなかった。
先日、会社の若い部下が結婚した。
新婚旅行から戻ってきた彼が、奥さんの話を嬉しそうにしていた。
「うちの奥さん、本当にかわいいんですよ。」
その言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。
「今だけだぞ。20年も経てば変わるからな。」
周りも笑った。
でも帰りの電車で、ふと考えた。
最後に妻をかわいいと思ったのは、いつだっただろう。
いや、違う。
かわいいと思わなくなったわけじゃない。
ただ、それを言葉にしなくなっただけだ。
妻はいつから、俺に興味がなくなったんだろう
結婚して25年以上。
子どもたちも大きくなり、夫婦二人で過ごす時間が増えた。
昔は、出かける前に妻がよく聞いてきた。
「この服、どう?」
「髪、変じゃない?」
そのたびに、
「いいんじゃない?」
と適当に答えていた。
今思えば、もったいないことをした。
妻はきっと、服の出来栄えを聞きたかっただけではなかったのだろう。
自分がどう見えるか、夫に気にしてほしかったのかもしれない。
ところが最近は、何も聞かれない。
私が何を着ていても、妻は特に何も言わない。
それはそれで気楽だった。
でも、ある日。
リビングでテレビを見ていた妻が、画面に映った同年代の俳優を見て言った。
「この人、素敵よね。」
なぜか、少し面白くなかった。
「もう結構な歳だろ。」
「そうよ。でも、いい歳の取り方してるじゃない。」
妻は楽しそうに笑っていた。
その横顔を見ながら、妙な気持ちになった。
俺だって同じくらいの歳なのに。
そう思ってから、自分でも驚いた。
まさか50代になって、テレビの俳優に嫉妬するとは。
妻に褒められたいなんて、いつ以来だろう。
いや、本当はずっと、そう思っていたのかもしれない。
ただ、長年一緒にいるうちに、そんな気持ちを口にするのが照れくさくなっていた。
もう一度、妻に「素敵ね」と言われたい
土曜日。
久しぶりの二人だけの外食だった。
何を着ていこうか、クローゼットの前で少し迷った。
いつものポロシャツを手に取って、戻す。
別に悪いわけではない。
でも今日は、少し違う自分で出かけたかった。
買ったまま、あまり着ていなかったシャツを出した。
鏡の前に立つ。
襟を整えながら、ふと胸元が気になった。
そういえば妻に以前、
「そのシャツ、乳首がちょっと目立つよ。」
と言われたことがあった。
そのときは、
「男なんだから別にいいだろ。」
と笑って済ませた。
でも、妻は笑わなかった。
「せっかく似合ってるのに、ちょっともったいないなと思って。」
今になって、その言葉を思い出した。
あれは、私を恥ずかしがらせたかったわけではなかったのだろう。
少しでも素敵でいてほしいという、妻なりの気持ちだったのかもしれない。
今日は、シャツの下に着るインナーも選び直した。
乳首のラインが目立ちにくいものを着ると、胸元の印象がすっきりした。
「なるほどな。」
鏡の前で、少し嬉しくなった。
髪も丁寧に整える。
香水をつけようか迷って、やめた。
そこまで頑張るのも、なんだか気恥ずかしい。
支度を終えてリビングへ行くと、妻がこちらを見た。
「あら、今日はおしゃれしてるのね。」
「そうか?」
「うん。いいじゃない。」
たったそれだけだった。
なのに、胸の奥がじんわり温かくなった。
若い頃、初めて妻をデートに誘った日のことを思い出した。
あの頃も、こんなふうに服を選んでいた。
待ち合わせ場所で彼女を見つけると、嬉しくて仕方がなかった。
何を話そうか考えていたはずなのに、顔を見た途端、全部忘れてしまった。
あれから25年以上。
今では妻の寝起きの顔も知っている。
機嫌の悪い日も、疲れて口数が少なくなる夜も知っている。
私の情けないところだって、妻は嫌というほど見てきた。
それでも、今日の自分を少しでも素敵だと思ってくれたら嬉しい。
そう思った。
50代になって、妻にまたモテたい。
自分の中にまだそんな気持ちが残っていたことが、少し可笑しかった。
今さら照れくさい。でも、今だから伝えたい
食事を終えて、駅まで歩いた。
妻が、
「今日はごちそうさま。」
と言った。
「たまにはいいだろ。」
「また連れてきてね。」
「おう。」
しばらく並んで歩いた。
若い頃は、よく手をつないでいた。
子どもが生まれてからは、いつもどちらかが小さな手を握っていた。
気づけば、夫婦で手をつなぐこともなくなっていた。
ふと、隣を歩く妻の手を見た。
昔より少し細くなった気がする。
この手で、何度ご飯を作ってくれただろう。
子どもが熱を出した夜も、私の帰りが遅い日も、家族のために動いてくれていた。
もちろん、喧嘩もした。
腹が立って、何日もろくに口をきかなかったことだってある。
それでも、気がつけばいつも同じ食卓に座っていた。
若い頃は、妻の笑顔が好きだった。
今は、それだけじゃない。
私が失敗したとき、余計なことを言わずにいてくれたこと。
仕事で落ち込んで帰った夜、いつも通り夕飯を出してくれたこと。
私の知らないところで、きっと何度も我慢してくれたこと。
そんな年月ごと、妻が愛おしい。
「なあ。」
「何?」
「今日、楽しかったな。」
「そうね。久しぶりだったもんね。」
少し迷ってから、手を差し出してみた。
妻は私の顔を見て、吹き出した。
「どうしたの、急に。」
「いいだろ、別に。」
「はいはい。」
そう言いながら、手を握ってくれた。
なんだか照れくさくて、二人で笑った。
帰り道、妻がぽつりと言った。
「今日のシャツ、似合ってるよ。」
「さっきも言ってただろ。」
「そうだっけ?」
「言ってた。」
本当は、何度言われても嬉しかった。
50代になって、妻にまたモテるには。
特別なプレゼントも、豪華な旅行も、もちろん素敵だと思う。
でも、最初の一歩はもっと身近なところにあるのかもしれない。
妻と出かける日の服を、少し楽しみに選ぶ。
以前は気にしなかったインナーにも目を向けてみる。
そして、長年の感謝を照れずに伝える。
自分の見た目に手をかけることは、妻に対する小さな愛情表現にもなる。
夫婦になっても、父親と母親になっても、二人が恋人だった時間は消えていない。
家に着く少し手前で、妻が言った。
「またデートしようね。」
その言葉に、思わず顔が緩んだ。
「次はどこに行く?」
少し先を歩いていた妻が振り返る。
「もう次の話?」
そう言って笑った顔は、あの頃とあまり変わらなかった。
やっぱり、俺はこの人が好きなんだ。
結婚して25年以上。
今さらだけど、もう一度この人に恋をしてもらいたい。
そしてできることなら、これから先もずっと。
妻の隣を歩く男は、自分でありたい。