「今さら、お見合いなんてな。」
そうつぶやきながら、クローゼットを開けた。
55歳。離婚して8年になる。
一人の暮らしにも慣れた。
仕事から帰って、好きなものを食べる。休日はゴルフに行ったり、録画しておいた番組を見たり。
誰にも気を使わなくていい生活は、思っていたより快適だった。
それなのに、ふと寂しくなる夜がある。
仕事で嬉しいことがあった日。
旅行先で美しい景色を見たとき。
誰かに話したいと思ってスマホを手に取り、結局そのまま置いてしまう。
そんなことが、少しずつ増えていた。
もう一度、誰かと暮らしてみたい。
そう思って結婚相談所に登録したものの、いざお見合いの日が近づくと、気持ちは落ち着かなかった。
若い頃の恋愛とは違う。
50代の自分を、これから誰かが好きになってくれるのだろうか。
その不安を、誰にも言えずにいた。
55歳の自分を、女性はどう見るのだろう
お見合いの前日。
久しぶりにスーツを出してみた。
仕事では着慣れているはずなのに、今日は妙に気になる。
ネクタイを合わせ、シャツを着る。
鏡の前に立った。
「老けたなあ。」
思わず声が出た。
髪は薄くなった。
お腹も少し出てきた。
昔はそれなりに女性から好意を持たれたこともあった。
でも、あれから随分と時間が経った。
今回会う女性は52歳。
プロフィール写真では、優しそうに微笑んでいた。
趣味は旅行と料理。
文章からも穏やかな人柄が伝わってきて、ぜひ会ってみたいと思った。
だからこそ、怖かった。
自分は相手を素敵だと思っている。
でも、相手も同じように思ってくれるとは限らない。
お見合いを申し込んだときは前向きだったのに、日が近づくほど自信がなくなっていく。
ふと、シャツの胸元に目がいった。
乳首のラインが少し目立っている。
以前なら気にもしなかった。
男なんだから、そんなものだろう。
でも今日は違った。
せっかく会ってくれる女性に、少しでも良い印象を持ってもらいたい。
そう思う自分がいた。
「こんなことまで気にするようになったか。」
苦笑いした。
けれど、それは決して情けないことではなかった。
もう一度、誰かに好きになってもらいたい。
その気持ちが、身だしなみの小さな部分にまで表れていたのだと思う。
お見合いで一番怖いのは、断られることではなかった
当日。
待ち合わせのホテルには、約束の20分前に着いた。
少し早すぎた。
ロビーの椅子に座り、スマホで女性のプロフィールをもう一度読む。
何を話そう。
仕事の話ばかりにならないようにしよう。
離婚のことを聞かれたら、どう答えよう。
考えているうちに、手のひらが汗ばんできた。
そのとき、ふと気づいた。
自分が本当に怖いのは、断られることではないのかもしれない。
若い頃なら、恋愛がうまくいかなくても、また次があると思えた。
でも50代になると、一度の出会いにいろいろな思いが重なる。
これからの人生を誰かと歩きたいという希望。
また傷つくかもしれないという不安。
そして、長い間一人で生きてきた自分を、受け入れてもらえるのだろうかという心細さ。
離婚したときのことも思い出した。
夫婦としてうまくやれなかった自分。
もっとできることがあったのではないかという後悔。
あの経験があるからこそ、今度は相手を大切にしたいと思っている。
でも、その気持ちを初対面の女性にどう伝えればいいのかわからない。
「もう若くないからな。」
自分に言い聞かせるように、何度も使ってきた言葉だった。
けれど、本音は違った。
もう若くないからこそ、残りの人生を大切にしたかった。
だから、今日ここに来たのだ。
そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
出かける前、いつもより丁寧に身支度をした。
シャツの下には、胸元が目立ちにくい男性用インナーを選んだ。
以前なら考えもしなかったことだ。
けれど今日は、自分の見た目を気にかけることさえ、どこか嬉しかった。
誰かに会うために、服を選ぶ。
その人にどう見られるかを考える。
そんな時間が、自分の人生にもう一度戻ってきたのだから。
「また会いたい」と思える人がいる幸せ
約束の時間になった。
女性がこちらへ歩いてくる。
写真より少し緊張した表情だった。
「初めまして。」
「初めまして。今日はありがとうございます。」
お互いに頭を下げた。
最初はぎこちなかった。
コーヒーを飲もうとして、カップを少し強くソーサーに置いてしまった。
話題を探しているうちに、妙な沈黙も生まれた。
ところが、旅行の話になったときだった。
「私、いつか北海道をゆっくり回ってみたいんです。」
女性がそう言った。
「いいですね。私も行きたいと思っていました。」
「本当ですか?」
その瞬間、彼女が初めて声を上げて笑った。
写真で見た笑顔より、ずっと素敵だった。
そこから少しずつ会話が弾んだ。
好きな食べ物の話。
休日の過ごし方。
最近、体力が落ちたと感じること。
同年代だからこそ笑える話もあった。
気がつけば、最初の緊張は薄れていた。
目の前の女性が何を話してくれるのか、純粋に楽しみになっていた。
お見合いが終わり、ホテルの出口で別れた。
「今日はありがとうございました。」
「こちらこそ。楽しかったです。」
そう言って彼女は微笑んだ。
帰り道、何度もその表情を思い出した。
また会いたい。
素直にそう思った。
相手がどう感じたかは、まだわからない。
お断りされる可能性だってある。
それでも、不思議と後悔はなかった。
久しぶりに誰かと会うことを楽しみにして、前の日から服を選んだ。
鏡の前で自分を確認し、普段は気にしないインナーにまで気を配った。
少しでも良く見られたいと願いながら、緊張してホテルへ向かった。
そして、初めて会った女性の笑顔に心が動いた。
そんな自分が、なんだか愛おしく思えた。
55歳。
もう恋愛なんて面倒だと思っていた時期もあった。
一人の方が気楽だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも、心のどこかでは、ずっと誰かを求めていたのだろう。
家に帰り、ネクタイを外した。
スマホを開いて、結婚相談所の担当者にメッセージを送る。
「今日はありがとうございました。できれば、もう一度お会いしたいです。」
送信ボタンを押す。
少し胸が高鳴った。
若い頃のように、勢いだけで恋愛はできない。
これまでの経験も、失敗も、背負っているものもある。
それでも、もう一度誰かを好きになりたいと思える。
その気持ちが残っていることは、幸せなことなのかもしれない。
50代の婚活は、決して遅い挑戦ではない。
自分の人生を振り返り、これからの時間を誰と過ごしたいのか、真剣に考えられる年齢だからこその出会いがある。
お見合いのために選んだシャツを、ハンガーに掛けた。
次に着るのは、いつだろう。
できれば、あの人にもう一度会う日だったら嬉しい。
そう思ったら、自然と笑みがこぼれた。
55歳。まだ誰かに恋をしてもいい。
そして、誰かから愛される未来を、もう一度楽しみにしてもいい。
その一歩を踏み出した自分を、今日は少し褒めてやりたかった。